小学2年でサッカーを始める。岛商业高校时代、全国高校サッカー选手大会徳岛県大会で3年间连して决胜へ胜ち进んだが全て准优胜だった。Jリーグクラブからのオファーはあったが、
福冈大学へ进学。大学サッカー屈指のストライカーとして活跃し、ユニバーシアード(スペインマリョルカ大会)の
日本代表にも选ばれた。大学では教员免许を取得した。
プロ1年目の2000年は三浦知良やへジスの阴に隠れていてゴールを决めることができなかったが、2年目の2001年には背番号9をもらい、この年41试合で日本人として惊异的な30ゴールを决めJ2ゴールランキング2位、日本人ゴールランキング1位に辉いた。
2002年には
松井大辅、
朴智星らとともに破力群の攻的なサッカーを展开し、3-4-3のフォーメーションのセンター
前锋としてチームトップ、日本人ゴールランキング3位の13得点をあげた。また
天皇杯では5试合で4得点を上げ优胜に贡献。
2005年にはフル代表への意欲からJ1クラブへの移籍を望み、FW
大久保嘉人が退団した
大阪樱花队へレンタル移籍。7月24日に徳岛にフットサル场「シーサイドフットサル徳岛」をオープン、现役Jリーガー初のオーナー経者となる。9月3日には地元の小学生のサッカーチームを集めて「第一回 クロベカップ少年サッカー大会」を开催。
2006年は浦和レッズへ京都よりレンタル移籍したが、その年にリーグ得点王となったワシントンとポジションを争う形となり、出场机会にまれなかった。なお、この年に行われたさいたまシティカップのバイエルンミュンヘン戦で决胜点となるゴールを决めている。
2009年シーズンオフにJリーグ合同トライアウトを受け、2010年から
富山胜利に完全移籍。チーム最多得点となる8得点をあげた。